【2】

その男の肌は異様に白かった。細く開いた自室の窓から男を見つけた時、俺はその真っ白な肌を欧米人のものと思い込んだ。整った面立ちはどちらかと言えば日本人のそれだったが、どこか日本人離れしたものを感じさせた。混血かと訝ったが、表情や物腰が日本人然としすぎている。観察しているうちに俺はなぜかその男が恐ろしくなってきた。窓の死角にいる誰かと談笑するその男の歯に、鈍く光る金具が装着されているのが見えた。これ以上この男を見ていてはいけないような気がした。音を立てないように注意しながら窓を閉めようとしたその瞬間、白い男と目が合った。ほんの数センチの窓の隙間から差し込んできた男の視線に射竦められ、俺は動けなくなった。男は俺の存在を認めると眼差しをやわらげ、禍々しい金具の貼りついた歯を見せて笑った。俺は圧倒的な恐怖を感じながら精一杯の力を込めて窓を閉めた。倒れこむようにソファに沈んでからも膝が震えていた。それからというもの、俺は自室の窓を閉め切る事が多くなった。あの悪魔のような白い男を二度と目にするのは嫌だった。

普段、細く開いた自室の窓からは俺に恋を与えてくれた女がゴム飛びに興じる姿を楽しむ事が出来た。大きく窓を開く事をしないのはこちらの存在を知られたくないからだ。俺は亡霊のような、あるいは神のような透明な存在でありたかった。初めて彼女を目にして以来、そうして狙撃手のように息を潜めながら彼女を愛でる事が俺の日課になった。しかし白い男のおかげでそれも叶わなくなった。こうしている今も、彼女は窓の外で無邪気な笑顔をふりまいているに違いない。そう思うと狂おしい気持ちになった。俺は白い男を憎んだ。あの男の前歯に張り付いた禍々しい金具を憎んだ。憎悪は日増しに大きくなり、やがて恐怖を凌駕した。俺は再び窓を開ける決心をした。

ショットグラスにバーボンを注ぎ、一息に飲み干す。熱い塊が喉を焼きながら過ぎて行き、腹の底にくすぶっていた憎悪に火をつけた。巨獣が炎を吐くようにして咆哮を上げながら、自室の窓を全開に開け放つ。窓辺に立つ俺のすぐ目の前で、彼女は少し驚いたような表情でまっすぐに俺を見ていた。俺という存在を認識した。数センチの隙間から一方的に覗き見ていた世界は、今、この狭い部屋とすっかり同化したのだと感じた。彼女は業火を纏った醜い巨獣のような俺を見つめたまま、人見知りな笑みを見せた。俺は彼女が肉体を持った、実在する一人の美しい少女なのだという事を唐突に理解した。二つの世界が同化した事で、彼女や、彼女の為に腰の位置でゴム紐を構える二人の少女や、通りの向こうで走り回っている少年達と同じ肉体を、俺も手に入れたのだと思った。今の俺はきっと自分の手で彼女に直接触れる事が出来る。だがもう二度と透明な存在のまま彼女を盗み見る事は出来ないだろう。俺は混乱した。混乱して、呆然とした。やがて彼女は俺を見つめたまま声を発した。なんでもない挨拶のような言葉だったが俺には意味が理解できなかった。小さな鈴の音のように耳触りの良い音の羅列は俺に「ようこそ」と言ってくれているように思えた。私達と同じ世界へようこそ、という彼女の言葉は、これまでの俺の世界が死に、新しいこの世界が生まれた事を意味していた。そこには彼女がいて、俺がいて、彼女の背後でいやらしい笑みを浮かべる白い男がいた。

ポアイズム

今の職場にやってきてもう2年の月日が流れたよ。不慣れな愛想笑いを続けるには長すぎる時間だったね。もう限界っす。これ以上働けないっす。右のおっぱいを揉むと左の乳首からあたたか〜い牛乳が出てくる篠崎愛型のミルクサーバーを発明して大儲けする夢を叶える為にバリへ飛んで毎日「あっちー」とか言いながらダラダラ暮らしたい。俺には多分そういう時間が必要だし、むしろそういう時間しか必要ないんじゃないかな。君もそう思わない? じゃあセックスしよっ?

荷物をまとめて空港に行って「BARI」って書いてある飛行機に適当に乗ればたぶんバリに飛べる。浅黒い入国審査官がこちらの顔も見ずにつまらなそうに聞いてくる。「サイトシーイング?」俺は答える「ノー、コスミック・インベンション!」審査官は両眉を上げて口笛を吹くと「ボン・ボヤージュ!」と叫びながら盛大な音を立ててハンコを付いた。俺はコンピューターおばあちゃんを歌いながら空港のゲートを出る。そこには見渡す限りの陸・海・空・ヤシ・恵まれない子供たち・薄汚れた娼婦たち・それを食い物にしている酒臭い男たち。うん、まあ、まわれ右しちゃうかな〜やっぱし!

じゃあ今日はマジでひくから笑えないのでツイッターでもあまりつぶやく事のない上司について紹介しましょう。まず歳はね、よくわかんないけど65歳くらいのじじいです。背が小さくて小太り。顔に吹き出物がたくさんあって、まあ、ここまでの条件でだいたいの人は生理的に受け付けないんじゃないかって思うけど、そんな外見です。
それでこの人が、人っつーか、じじいが、まあ〜スケベで仕方ないんだよ。スケベな事が大好きでたまらないの。そりゃまあ俺だって大好きだけどおまえには負けるわーって思っちゃう。60過ぎまでエロいモチベーション維持できる自信ないもの。ハートはともかく体がついてこない。絶対にそうなる。俺にはわかる。現在進行形でそうなりつつあるから。

だからまあ、この際スケベなのはいいよ。でもそれを人前で出してこうっていうおかしな気概があるのが問題でさ、突然、AKBやらももクロやらのファンである事をカミングアウトしてきたり、「昔はトルコ風呂に通ってた」みたいな話題をぶん投げてくんの。そのくせモラリストを気取りたいのか、出会い系なんかの事件がニュースになると「初めて会った人とセックスするなんて考えられないよ」とか真顔で意見してくるからびっくりする。初めて会った人としていいのはマットプレイまでなのかーって。そんでこのトルコ帰りのモラリストが、みんなの目を盗んで職場でちょいちょいXVIDEOSを観賞してるんだよ、きもちわるいだろ? そんなのが普通に見れてしまうPC環境の職場って時点で察して欲しいところではあるんだけど、それにしてもどうなんだって。

でさ、こないだその上司と二人で残業してたらなんかおとなしいんだよ。横眼で様子を探ったら、椅子に浅く座って、背筋ピーン!と張って、左手をグーにして膝に置いて、右手をまっすぐマウスにおいて、微動だにせずものっすごいスケベな顔でパソコンとにらめっこしてんの。俺の席からじゃ上司のパソコンに何が映ってるかは確認出来ないんだけど、誰だって「はは〜ん」て思うよね。そもそも俺が残業してんのもこの上司の尻拭いなのであって、なにをかヌラヌラしとんじゃおまえってなるじゃない。だからちょっと懲らしめてやろうと思ってさ、椅子ガターン!いわして急に立ちあがって上司の席の方へ向かってくふりしたの。そしたら上司がビックーン!てなって、背筋ピーン!左手膝、右手マウスで座ったの姿勢のまんま、少し飛んだんだよ。それまで座ったまんま飛べる人って麻原彰晃しか知らなかったからこれには驚いたね。でもそれでなんだか腑に落ちた。ああ、こいつは上司なんかじゃない、尊師なんだって。

バカオフィスにて

薄々つーか、まあ、生まれる前から気づいてたような気もするんだけど、うちの職場ってちょっとおかしいみたいでさ。おかしな奴らが集まったおかしな職場だからまともなわけないんだけど、それにしてもどーかと思うような所が多くてね。いっこいっこ挙げてったらきりがないんだけど、例えば俺以外の全ての職員が異様にボスを恐れ敬うのが理解できない。もしかしたら宗教ってこんな感じかもな〜ってくらい、みんなの恐れ敬い崇め奉るバイブスをビンビン感じる。たぶんみんな毎朝ボスのおしっこ飲んでるし、抜け毛とかカサブタとかを拾い集めて部屋に飾ってると思うよ。

この職場に来てすぐに、毎年行く社員旅行で必ずカラオケをやるって聞いてさ、危険を感じたから「俺カラオケ大嫌いなんす」ってその場でハッキリ宣言してやったの。よしっ、言ったった、これで俺は歌わなくていいなって思ったよ。ところが俺のポツダム宣言を聞いた職場のバカ達が一斉に不安げな面持ちになりながら「や、べつにちょっと歌うくらいはするでしょ?」とか「カラオケ行った事あるよね?あるでしょ?」とか言ってきてこっちはポカーンとしちゃってさ。意味がわかんないから「や、俺カラオケ嫌いなんで歌いませんよ」って再びバクザン発言してやったの。そしったらもうバカの上司が必死んなって「それはまずいな〜、一曲くらいは、ね?」て懐柔してくるわけ。

いやいいよ別に一曲歌うくらい。歌下手だし人前で歌いたくないけどそこまで言うなら聴かせてやらない事もないよ。お望みならドームでワンマン3DAYSも辞さないよ。でもカラオケくらいでなんでそんな必死になんのかさっぱりわかんないなーと思ってたら、何やらボスがカラオケ大好きなんだって。それで、歌わない人がいると不機嫌になるんだって。なんっじゃそらっ!って。この職場来て3日目(当時)だけどなんっじゃそらっ!って。あのうすらハゲのぬらりひょんみてえなじじいが不機嫌になって、それがどうしたっつんじゃこんボケが!って。バカかこいつら!って。

俺の目にはボスってものすごく温厚ないいじじいで、とてもじゃないけどカラオケ歌わないくらいで怒りだすような人には見えないし、その後現在に至るまでボスのそんな姿を見た事はないんだけど、ともかくまあ、みんなものすごく丁寧に、ちょっと慇懃無礼なんじゃねえか?つかわざと?くらいの態度でボスに接しているのを知るにつれて俺の疑問は深まってゆくばかりだし、それは今もって理解できないままでいるってわけ。

今日なんてボスがやって来て「お客さんの手土産で崎陽軒のシューマイもらったから皆で食べましょう」つってたまたま近くにいた上司に例の赤い小箱を手渡してさ。「はっ!ありがとうございます、頂きまっす!」って腰を折りながら両手でシューマイ受け取る上司見てたらシュールだなーって。おまえそれシューマイやでって。賞状ちゃうでって。

そんでそれがちょうどお昼時だったもんだから上司が真面目な顔で「ばばあ君、早速チンしてくれたまえ」ってえらそうに指示してさ。つかそれシューマイだしって俺思ってて。いつになく機敏に「ハイッ!」って返事して受け取ったばばあが素早く裏面のシールで内容数を確認して「人数で割ったら2つ余りますね…」って報告したら、なんかわかんないけど一瞬事務所がシーンとしちゃってさ。俺もうわけがわかんなくって「え?なにこれ?え?え?」ってなってたら、ボスがくるっと踵を返して「私はいいから皆さんで分けて下さい」って上階の自室に戻って行くの。そしたらみんなその背中に向かって「あざーっす!」って。もういっぺん言うけどおまえらそれシューマイだからね。それはお客さんにもらった崎陽軒のシューマイであって、ありがたいボスのうんこじゃないからね。

バカ通夜2014

お葬式なんかの話題ってたぶんけっこうデリケートだよね。まあ書くけど。

つい先日、職場の先輩の母親の通夜に職場のバカの面々と参列してきたんだけどさ、俺も詳しく知らないけど通夜って身内とかごく親しい人たちの集まりなんじゃねえの?職員の親族の葬儀なんて職場の代表が告別式に参列すれば義理立て出来るもんなんじゃねえの?俺たちまでバカ面下げて出向く意味あんの?むしろ邪魔じゃねえの?って思いながらさ、もうずっとずっとそう思いながらさ、何が楽しみなんだかバカのボスが早く行こう早く行こうって急かすから仕事もそこそこにして事務所出てさ、電車で1時間もかけて寒村まで出掛けてってさ、駅降りてから斎場までけっこう歩かされたぜ? 着いたらけっこう、つか、かなり立派なお式でさ、なんだよあいつ、あいつって私服がクソダサい先輩の事だけどさ、なんだよあいつ金持ちかよって。じゃあまずアンドレジャイアントみたいな髪切っていい服買えよって。

バカが急かすから30分も前に到着しちゃってさ、俺たちみんな手持無沙汰だよ。見かねた係の人に案内されて早々と席についたら眼前には歴史的建造物みたいな荘厳な祭壇。そして隅から隅まで贅沢に敷き詰められた花々の真ん中にでっかい遺影がドーン!!ってあって、「えっ、誰?」って。そりゃそうだよ、職場の人の母親の顔なんか知ってるわけねえし、あ、でも職場のボスはもしかして面識があるのかもなーと思ってたら「ご焼香まで今しばらくお待ち下さい」って書いてある立て札を完全に無視して、ルカー!と叫んでドカドカ行っちゃってバカだから。もうバカだからすぐドカドカ行っちゃうからさ。

何するのかと思ったら祭壇のほど近くにある親族用の席をも通り過ぎて、俺みたいなど素人にも「あそこはお坊さんが座ってお経を読む場所ですね」とわかる場所まで行っちゃって、「つまりあそこにあるローソクやお線香はお坊さんが使うんだろうなあ〜」って想像がつくまさにそのお線香をそのローソクでおもむろに着火して、誰も足跡まだつけてない一足お先の砂の上にお線香ドーン!ぶっ刺して、「お坊さんがお経のビートを刻むためにあんな火鉢みたいなでかいおリンがあるんだね〜」と確信されるまさにそのおリンを豪快にゴーン!ゴーン!いって、カルロス・ゴーン!いって、なんかニフラムニフラムみたいな事をけっこうな声量で唱えてからお棺にすり寄ってってご尊顔の所の扉をパッカー!って、おまえは本当にすごいなって。だってまだお通夜は始まってもいないんだぜ?親族のみなさんもまだお線香あげてないし、顔だって見てないんじゃないかな。

それでやりきった顔してツヤッツヤになって席に帰って来て「先輩くんはお母さん似だね」って、やっぱり面識ねえのかよ!って。俺もうおもしろくって。ああ、来てよかったなって。香典出したくねえな〜って思ってたけど元とれたなって。この職場やめる時はこれ以上笑いをこらえるのに耐えられませんって辞表に書こうって思ってる。

バカバカバスツアー2014 臨死!バカだらけ36時間!

なんかね、また今年も行くんだって言うんだよ社員旅行。だから俺、言ってやったの。「去年も行ったじゃないすか!」て言ってやったの。そしたら「今年はミステリーツアーに行きますから!」って言い返されちゃった。職場のボスにそう言われたら黙って頷くしかないよね。サラリーマンはみんなそうやってわずかばかりの金をもらって暮らしてるんだから。「みすてりーつあー?」ってかわいく首を傾げるのが精一杯の抵抗だなんて、まったくしんどい稼業だよな。

なんだかボスの話によるとミステリーツアーっていうのはどこに行くのか秘密にされていて、到着してからのお楽しみ!っていうものらしいんだけど、これ考えたやつと行くやつ気が狂ってるだろ。まあ、それくらいでなきゃ社員旅行なんて行くわきゃねえか。狂気にはより深い狂気を以って対峙するか、またはいっそ同化してしまうしか方法がないのかな…。ねえ、みんなはどう思う?って職場の面々を見たら、大まかな立ち寄りポイントを示した旅行日程を見て温泉の内容からすると新潟じゃないか?いや違うワイナリーに行くみたいだから山梨だ、いやいや海産物のお土産がつくから三陸だとか言いあってワイワイやっててもうバカだけかよこの職場まじで。俺うんざりよ。

で、結果、おおよそのコースが判明しちゃったからミステリーツアーはやっぱりやめましたっていう事になっちゃて、なんだそれバカかって思って、やっぱり静岡→愛知でお寿司食べ放題&メインが選べるリッチなディナーにするんだって。ああよかったなーって誰も思わねえよバカか。どっちだっていいよバカ。痛いか苦しいかの違いでどっちにしろ地獄だろうがバカが。それからというもの、仕事は手につかず、飯は喉を通らず、お腹が痛くなって、手が震えて、夜道で後ろから肩を叩かれて振り向いたらそこには社員旅行が…!という幻覚に襲われる毎日。気が狂いそう。

それでも時は流れちゃう。旅行の朝はやってきちゃう。集合時間にちょうどいい電車に乗ると同じ路線でやってくるバカに遭遇しちゃうんじゃないかと思って早めに出発しようと思ってたのに俺少し寝坊しちゃってさ。ソッコーで支度して家飛び出して、それくらい朝一番でバカどもの顔を見たくないっていう気持ちが強かったんだよ。だからホームに入って来た電車の窓からバカ二人が手を振ってるのを目にした時は絶望したな。マジで終わったと思った。仕方なくバカの上司とバカのばばあが並んで座ってるシートに腰下ろしてね。何話したかなんて覚えちゃいないよ。腹を減らしてテーブルについたらメラミンの皿にうんこが盛られて出てきたから仕方なく胃袋に詰め込んだみたいな気持ちっていったらみんなにもわかるかな?わかるわけねえよな!

そんで集合場所ね。ツアーの人が、だいたいみんな揃ってるから少し早めに出発しちゃいましょうって。まあ道路が混むかもしんないし全員揃ってんのに律儀に出発時間を待ってる理由もないからいいんじゃないの。そしたらボスが今年のお財布係の同僚にバスで食べるつまみ買って来いって言ってんの。いやいや、ツアーの人がもう行きますって言ってたでしょ聞いてなかったん?で、コンビニに行ったバカを横目に俺たちは先にバスに乗り込んだんだけど、まあ、帰って来なくてね。結局出発予定時刻の2分前くらいまで足止めくらっちゃって、ツアー客全員の10分前行動が功奏して実現した15分前出発がだいなし。しかも俺たちの席がバスの一番後ろでさ、両手にコンビニ袋持ったうちのバカが「いやどうも…」とか何とか言いながら、ツアー客の全員にバカ面を拝まれつつこっちに帰って来て、サンドイッチ配り始めて。他の乗客の顔は見えないけど、めっちゃ険悪だろこんなん。こんな空気の中で飯なんか食えるかバカと思ってたらみんなバリバリ袋開け始めてさ、バス中が一気にハムマヨ臭くなっちゃって。つか、こいつらどんなメンタルしてんだよ信じらんねえなまじでと憤る俺を乗せてバスは静岡県に向かって走り出したんだけど、これが36時間も繰り返される惨劇の序章に過ぎなという事を一体誰が予想できたであろうか。まあ、こうなる事は生まれる前から知ってた気もするけど。

果てなき闘争

のび「吹石一恵と〜ハメた〜いなあ〜!」

ドラ「はい、タケコプター!(ヴィィィ〜ン)」

一恵「アン♪ アン♪ アッ… アッ、アッアアッ、オッ、オッ? オッ? アッ! アッアッ! オッ? オッ? オッ! エッ? エッ? えっ? えぇ〜っ! えぇ〜〜っ! すっ、すご〜いっ!! わたし飛んでる!!」

みんなの職場にばばあはいますか。私の職場にはいます。とびきりのばばあがいます。フレッシュでもぎたてのばばあです。フレッシュでもぎたてのばばあはツムラ防風通聖散という漢方薬を愛飲しています。いわゆるダイエット漢方です。いわゆると言いましたがダイエット漢方なる言葉があるのかどうかは知りません。

ばばあは元気よく職場にやってくると、朝からデカい声でウンコみたいな家族の愚痴や薄っぺらい自虐風自慢をがなりながら、合間にサラサラっとダイエット漢方をあおる、そんな毎日を送っています。仕事はしません。めずらしくおとなしく仕事してるな…という時はたいてい楽天でショッピングをしていたりするので気を許せません。私はこのような場合、ばばあの席の後ろにあるシュレッダーに足しげく通う事により、プレッシャーをかけます。ムカつくから邪魔してやろうというわけです。しかしずる賢いばばあは、私が席を立つと同時に「カチカチッ!」と素早くマウスを操作し、ブラウザを最小化してエクセルのワークシートをアクティブにし、机に広げた書類に目を落とします。しかしその双眸は傍らに置いたスマホでLINEのタイムラインを追っている事は周知の事実です。

上司はそんなばばあに注意をしません。それどころか「ばばあさんはいつも若くてきれいにしてるね」などと、とめどなくゲロがあふれ出そうになる言葉を投げかけ、ばばあをその気にさせてしまいます。

「ばばあさんみたいな人の事を言う流行り言葉があるじゃない、何て言ったかな…」

上司がそう問いかけるとばばあは事もなげにこう言いました。

「ああ、美魔女?」

私は力強くデスクを叩いて立ち上がり、トイレに向かいます。わざと大きな音を立ててドアを閉め、用を足すフリをして悔し泣きをします。なぜ悔しいのかはわかりません。勝ち負けの問題ではない事はわかっていますが、ばばあに負けたくない気持ちがあるという事は確かです。せめてばばあの悪行をつまびらかにしてやろうと、ドアの音を立てないよう静かにトイレを出、足音を忍ばせてばばあの背後に迫ります。ばばあは、なんだかガチャガチャしたデザインのネットショップで件のダイエット漢方をカートに入れている所でした。

「ばばあさん、それって効くんですか?」

背後から話しかけるとばばあはビクンと一瞬背を伸ばし、驚きとへつらいと怒りがないまぜになったような色に目を濁しながら私を見上げ、こう言いました。

「一緒に買う?」

今度は私が驚きとへつらいと怒りがないまぜになったような色に目を濁す番でした。もしかしたらそれはばばあの精一杯の演技だったかもしれませんが、全く悪びれずにそう問い返され、私は簡単に動揺してしまったのです。それを悟られまいと虚勢を張り、「いらないっすよ〜」と笑顔を返して自席へ戻りましたが、その場に突っ伏して男泣きに泣いてしまいたい気分でした。泥のように濁った目をばばあに向けると、ばばあは上を向いてダイエット漢方をあおりながら、もう片方の手に持ったスマホでLINEのタイムラインを追っていました。天を仰ぎながらダイエット漢方とスマホを掲げるその姿は、まさしく勝利者のそれでした。

【1】

昔のことを思い出そうとすると真っ先に頭に浮かぶイメージがある。山に落ちかけた夕日。紅く燃える高い空。家路につく子どもたちの嬌声。どこからか漂ってくるうまそうな夕餉の香り。俺は自室のソファに腰掛け、平和で牧歌的な窓の風景を眺めながら日課のバーボンを傾ける。そんな光景だ。
古い一人掛けのソファを軋ませて背を預け、そっと目を閉じる。ロックグラスに残ったバーボンが日暮れと共に闇に溶ける。眠りはすぐにやってくるだろう。だが俺に許された眠りの時間はいつもごく僅かだ。遠くから聞こえる忙しげな物音。生立ちや性格まで読み取れそうな乱暴な足音。やがてけたたましい銅鑼の音と共に爆発するような大声が届く。

「ごはんやでえ!!!」

俺は諦めと共にゆっくりと目を開く。サイドテーブルのバーボンは完全に闇と同化してどす黒く淀んでいた。

ダイニングの固い椅子に腰を下ろして手を組み、父に感謝の祈りを捧げる。馬鹿馬鹿しい習慣だがとりたてて拒否する理由もなかった。年季の入ったシルバーを手に取り、マリネした海老が添えられたカクテルサラダをつつく。

「ちょっと!あんたドリルどないやねん!算数ドリル!!」

脂肪を蓄えたぶよぶよの体を震わせながら、母はまるで祈りの言葉のように毎日同じ質問を投げかけた。ポロネギの風味が効いたヴィシソワーズを口に運びながら、俺は視線だけでそれが順調に進んでいる事を伝えた。

「あんたくらいの子ぉはみんな外でベンキョーしてんねんでほんまに!来年っからランドセルなんやからしっかりやらな死ぬでほんま!!」

幼稚な遊び場に用はなかった。俺は外界との接触を避け、座り心地の良いソファのある自室に留まる事を選んだ。日中、誰もいない屋敷に一人で過ごす事を苦痛に感じた事はなかったが、周りの人間はそうは思わなかったらしい。せめてもの慰みに与えられた算数ドリルは俺に退屈と徒労を教えてくれた。穴を掘り、埋め戻すだけの作業を強いる拷問があるらしいが、身体を鍛える事が出来る分算数ドリルよりはましかもしれない。

メインは仔羊のパイ包み焼きだった。好物だが喉を通らなかった。無言でテーブルを離れると背後から母が何か言ったが、無視して自室へ戻った。カーテンを開き、部屋の明かりを落としてソファに腰掛ける。サイドテーブルに置き去りにされた闇の塊のようなグラスの中身を飲み干し、夜の帳の降りた窓の外を眺めながら、ほんの数時間前にこの窓から見た風景を思い出そうとした。

地表で太陽が燃えたかのような激しい光と熱の中に、彼女はいた。窓の形に切り取られた外の景色の中で、その存在は全くの異物に見えた。あの時、俺はまさしく恋をしたのだと思う。