【1】

昔のことを思い出そうとすると真っ先に頭に浮かぶイメージがある。山に落ちかけた夕日。紅く燃える高い空。家路につく子どもたちの嬌声。どこからか漂ってくるうまそうな夕餉の香り。俺は自室のソファに腰掛け、平和で牧歌的な窓の風景を眺めながら日課のバーボンを傾ける。そんな光景だ。
古い一人掛けのソファを軋ませて背を預け、そっと目を閉じる。ロックグラスに残ったバーボンが日暮れと共に闇に溶ける。眠りはすぐにやってくるだろう。だが俺に許された眠りの時間はいつもごく僅かだ。遠くから聞こえる忙しげな物音。生立ちや性格まで読み取れそうな乱暴な足音。やがてけたたましい銅鑼の音と共に爆発するような大声が届く。

「ごはんやでえ!!!」

俺は諦めと共にゆっくりと目を開く。サイドテーブルのバーボンは完全に闇と同化してどす黒く淀んでいた。

ダイニングの固い椅子に腰を下ろして手を組み、父に感謝の祈りを捧げる。馬鹿馬鹿しい習慣だがとりたてて拒否する理由もなかった。年季の入ったシルバーを手に取り、マリネした海老が添えられたカクテルサラダをつつく。

「ちょっと!あんたドリルどないやねん!算数ドリル!!」

脂肪を蓄えたぶよぶよの体を震わせながら、母はまるで祈りの言葉のように毎日同じ質問を投げかけた。ポロネギの風味が効いたヴィシソワーズを口に運びながら、俺は視線だけでそれが順調に進んでいる事を伝えた。

「あんたくらいの子ぉはみんな外でベンキョーしてんねんでほんまに!来年っからランドセルなんやからしっかりやらな死ぬでほんま!!」

幼稚な遊び場に用はなかった。俺は外界との接触を避け、座り心地の良いソファのある自室に留まる事を選んだ。日中、誰もいない屋敷に一人で過ごす事を苦痛に感じた事はなかったが、周りの人間はそうは思わなかったらしい。せめてもの慰みに与えられた算数ドリルは俺に退屈と徒労を教えてくれた。穴を掘り、埋め戻すだけの作業を強いる拷問があるらしいが、身体を鍛える事が出来る分算数ドリルよりはましかもしれない。

メインは仔羊のパイ包み焼きだった。好物だが喉を通らなかった。無言でテーブルを離れると背後から母が何か言ったが、無視して自室へ戻った。カーテンを開き、部屋の明かりを落としてソファに腰掛ける。サイドテーブルに置き去りにされた闇の塊のようなグラスの中身を飲み干し、夜の帳の降りた窓の外を眺めながら、ほんの数時間前にこの窓から見た風景を思い出そうとした。

地表で太陽が燃えたかのような激しい光と熱の中に、彼女はいた。窓の形に切り取られた外の景色の中で、その存在は全くの異物に見えた。あの時、俺はまさしく恋をしたのだと思う。